来週の入荷情報にもれなくついてくる店主の小咄。2017年のテーマは「上毛かるた」でした。そちらのアーカイブになります。
店主のコメント
==本当は「いろはにほへと」の順なのですが、なぜかぼくの住んでいた地域では「あいうえお」で習ったので、ぼくにとっての一枚目は「あ」なのです。==

あ・浅間のいたずら 鬼押し出し
天明の大飢饉を引き起こした1783年の浅間山大噴火。このとき火口で鬼たちが暴れて押し出した岩が生んだ奇勝。見渡すかぎりゴツゴツの火山岩が広がる景色は異様な雰囲気です。浅間山は標高2568m、長野と群馬の県境にまたがる美しい山で、ぼくにとっては富士山よりも浅間山こそ最高の名峰です。「大噴火で上が吹っ飛ぶ前は浅間のほうが富士山より高かったんだぞ」という妙な自慢をしていたのが、この札にまつわる若山シュウ君の小学校の思い出です。

い・伊香保温泉 日本の名湯
上毛かるたの完成は1947年。戦争と敗戦で疲れ切った郷土の子どもたちを癒し、なんとか明るくなってほしいという一心で、GHQの厳しい検閲と戦いながらの制作でした。いろはの順列で一番目となる「い」の札には、群馬で名高い伊香保温泉を当てて、「群馬の子どもたちの心と身体を癒したい」という強い思いを込め、読み札は赤く染められたのでした。
ちなみにもう一枚赤く染められた読み札があり、それは「ら」です。「雷(らい)とから風 義理人情」は風神が描かれた力強い絵札ですが、そこにはGHQの許可がおりずに入れられなかった小栗上野介や国定忠治たちの面影をひそかに雷神に託したと言われています。

う・碓氷峠の関所跡(うすいとうげのせきしょあと)
碓氷峠は群馬と長野の県境にあり、駅弁の『峠の釜めし』が有名な場所です。江戸時代、中仙道の重要な関所がここにあったそうです。自動車が発達した現代では、峠はあまり意識されなくなっていますが、徒歩が主な移動手段だったころの日本では峠は常に重要なマイルストーンでした。山国群馬に居を移してみると、どんな小さな山にも人の通した道があり、登りと下りの境目に「○○峠」という名があることを実感します。
「峠」はいわゆる和製漢字で音読みがありません。英語ではMountain Passでしょうか。群馬に生活し、「今日は中山峠を越えて吉井に入ろうかな」といったセリフを言うことになぜだかホッとするような小さな幸せを感じる今日このごろです。

え・縁起だるまの少林山(えんぎだるまのしょうりんざん)
高崎市の少林山達磨寺では毎年正月6日から7日にかけて「だるま市」が夜通し行われます。群馬のたいていの家庭にはひとつやふたつはあるのではないかというくらいポピュラーなだるま。このお寺は北極星や北斗七星を崇める北斗信仰のお寺でもあり、絵札にはだるまさんと北斗七星が描かれています。
ところが北斗七星の図柄をよく見ると星が六つしか描かれていません。方向を見定めるときの基点となる北斗七星を描きつつ、七つ目はひとりひとりが輝く星になってほしいという願いが込められているそうです。
この小咄を書き始めてから、上毛かるたのことを調べるほどに何十年も前の先人たちの思いや願いに触れるようになり、驚きや感動をあらたにしています。

お・太田金山 子育呑竜(おおたかなやま こそだてどんりゅう)
江戸時代、飢饉のときに子どもを手放そうとする親を諭して引き取り、自分やお弟子さんのお粥を分け与えて多くの子どもを育てたという大光院の住職・呑竜和尚の逸話から、大光院は今でも子どもの健やかな成長を願う人々がたくさん訪れる太田市の名所です。
かるたは声に出して読むため、調子の良さも大事ですが、なかでもこの札は「こそだてどんりゅう~~!」と語尾を伸ばして余韻を楽しめます。そのため、若山少年にとっては、読み手が読み始めると、札を取るよりつい声をあわせて叫ぶことを優先してしまう、という札だったのでした。

か・関東と信越つなぐ高崎市(かんとうとしんえつつなぐたかさきし)
地方都市にはよくある話ですが、群馬では前橋市と高崎市が対抗しあって、昔からどんぐりのせいくらべをしてきました。定番のやりとりは、
「県庁は前橋にあるんだぞ」
「高崎は新幹線が通っているんだぞ」。
ぼくをはじめとする多くの高崎っ子は親がそう自慢するのを真に受けて、「そうだ!高崎は新幹線だ!」というのを誇りにしていましたが、上毛かるたをやりながら、「新幹線が通り過ぎるだけだもんなあ。太田市の呑竜様、前橋市の生糸、伊勢崎市の織物などとくらべるとどうも特徴が薄いなあ」と心の奥から聞こえてきてしまう声をどうすることもできないのでした。
この札は、高崎っ子のそんなピュアな心をモヤモヤさせる札として印象に残っています。

き・桐生は日本の機どころ(きりゅうはにほんのはたどころ)
この札に描かれているのは「白滝姫」。奈良時代の末期、都から下ってきて、桐生の地に機織物の技を伝えたとされ、今も白滝神社に祀られているそうです。かつて養蚕は民衆を貧困から救う重要産業で、ぼくが子どものころの群馬でもまだ「おかいこさま」という呼称は普通に使われていたように思います。真っ白な生糸を滝に見立て、それを織る女性たちを大事にしていたことがこの伝承の始まりではないでしょうか。
微笑ましいのは、白滝姫をお嫁さんにもらえることになった決め手が、桐生の地、山田村の男性の和歌の腕前だということ。上手な歌を詠んで、お姫様を連れて帰ったのだとか。そして、さらにおもしろいことに、全国各地の「山田」という地名の場所に、この白滝姫伝説が言い伝えられているのだそうです。

く・草津よいとこ 薬の温泉(くさづよいとこ くすりのいでゆ)
高温の湯が湧き出で、硫黄の匂いが立ち込める草津温泉は、子どものころ、毎年家族旅行に連れていってもらった思い出の場所です。湯煙がもうもうと立ち昇る湯畑、天狗山スキー場、いろいろな動物と植物の草津熱帯圏が定番コースで、宿泊はホテルホワイトタウン。インベーダーゲームと卓球とエアホッケーをやるのが年に一度の楽しみでした。
草津温泉は歴史のある温泉で、伊香保と並んで全国的に有名。全国で著名っていうものがあまりないグンマーでは貴重な存在です。江戸時代、温泉番付では東の大関(当時の最高位)だったそうです。ちなみに西の大関は兵庫の有馬温泉だとか。

け・県都前橋 生糸の市(けんとまえばし いとのまち)
「か」のときにも触れましたが、高崎vs前橋という地方都市によくある、さして意味のない対抗意識のためか、この札が読まれたときの高崎市民の温度感はちょっぴり低め。「関東と信越つなぐ高崎市」や「鶴舞う形の群馬県」が読まれたときの熱気に比べると、「絶対にとってやるぞ」感がどうも少ない気がしたものでした。
今、大人になって、群馬の地に戻ってきてみると、前橋の素敵なところがたくさん目に入ってきています。萩原朔太郎が生まれ、広瀬川や利根川のほとりで詩を詠んだ前橋は今でもどこか気品のある街並みで、「県都」という歴史の風格なのだろうと思っています。

こ・心の燈台 内村鑑三(こころのとうだい うちむらかんぞう)
日露戦争を前にした「非戦論」、高潔に生きることこそ未来の人類への遺産となると説いた「後世への最大遺産」などで有名な内村鑑三は、江戸時代末期の高崎藩士の家に生まれました。上州人の朴訥とした人柄を愛情たっぷりに漢詩として残してくれています。
上州人
上州人は無知にして無才、
剛毅木訥にして欺かれやすし。
ただ正直さをもって万人に接し、
その至誠、神によりて勝利を期す。
※漢詩の読み方はぼくの自己流です。まちがっているかもしれません。
郷土の誇りとして誰を挙げるかといえば、ぼくの場合、萩原朔太郎か、もしくはやっぱり内村鑑三です。その平和への意志をすこしでも受け継いで生きていけたらと思います。

さ・三波石と共に名高い冬桜(さんばせきとともになだかいふゆざくら)
つばくろでも人気の「松田マヨネーズ」の工場の裏手を流れる神流川。その清流に磨かれてできた「三波石」は、江戸時代から続くここ鬼石地区の特産品です。ところが1968年に完成した下久保ダムによって三波石峡は無水地区となり、三波石は汚れ、黒ずんで輝きを失ってしまいました。その後、多くの人の熱意により2001年再度放水が始まり、かつての清流を取り戻しつつあります。
同じく鬼石地区、桜山公園の国の天然記念物になっている冬桜とともにいつまでも郷土の人の誇りであってほしいと願う札です。

し:しのぶ毛の国 二子塚(しのぶけのくに ふたごづか)
古代(4世紀ごろ)、群馬・栃木のあたりは「毛野国(けのくに)」と呼ばれ、のちに上毛野国(かみつけのくに)と下毛野国(しもつけのくに)に分かれました。上毛かるたの「上毛」はこの地名に由来します。また、群馬県には古墳が多く、大小あわせて1万基以上と言われています。全長50m以上の大きな古墳も160基あり、特に前方後円墳は横から見ると塚がふたつ連なっているように見えることから「二子塚」とも呼ばれています。
のちに京都・奈良を中心とした政権が日本列島の覇者となりますが、それ以前には関東にも独自の大勢力があったことをうかがわせ、歴史好きの少年少女が想像をふくらませて楽しんだ一枚です。

す:裾野は長し 赤城山(すそのはながし あかぎやま)
これは子どものころの取りたい札ランキングでも、上位に位置する一枚でした。関東平野の尽きる群馬県の真ん中に、長~い裾野を広げてそびえる赤城山はぼくの心の原風景のひとつです。日本海からの冷たい空気は新潟の山々に大雪を降らせたあと、三国峠を越え、この赤城山を越えると、水分を失い、乾燥したからっ風になって、関東平野に吹き降ろすのです。凍えるような冷たさの風に毎年うんざりしていましたが、この寒風が驚くほど甘くておいしい冬野菜を育てていたのだなあと気づき、赤城山がさらに素晴らしい霊山に思えた八百屋3年目なのでありました。

群馬県の北部は高い山々の世界。その北東部に位置する尾瀬沼はやがて栃木県の日光へと続く本州最大の湿原で、高山植物が咲き乱れる「花の原」です。子どものころ、「尾瀬はね、自然を守るためにゴミを捨てる場所もないんだよ。歩くのも木道の上しか歩いちゃいけないんだよ」と、両親に聞かされて、「へー、そんなところがあるんだ」と驚いたのを憶えています。当時からそういう自然保護活動は一般的だったのかなと思い、調べてみると、1972年(ぼくが生まれた年!)に日本で最初に「ごみの持ち帰り運動」がスタートしたのがここ尾瀬沼なのだそうです。
美しい自然を「仙境」と謳い、未来の世代に受け継がれることを願った上毛かるた製作者の願いは今も生きています。

かつては群馬の盆踊りといえば八木節でした。踊りは意外に激しくかなりの訓練を必要とします。そのため一時はだいぶマイナーになってしまいましたが、近年は群馬の各地で生まれた「保存会」の老若男女の力で復活しつつあります。どの地域でも、桐生八木節、妙義八木節など、さらに郷土色を強めた地域バージョンで独自に上州の風土文化を歌い、踊りにも工夫を凝らして保存されています。
ぼくが聞き覚えのあるのは国定忠治が出てくるバージョンで、博徒の親分に親しみを込め、リズミカルに威勢よく歌い踊る上州人らしいにぎやかな盆踊りが、小さなころの記憶に残っています。

県の北東部に位置する尾瀬沼の近くから流れる片品川沿いは美しい渓谷となっています。その渓谷の途中にある吹割の滝は、平らな岩の表面をとうとうと流れる水が岩の割れ目にしぶきをあげて吸い込まれていく幻想的な光景で、「吹割渓および吹割瀑」という名称で国の天然記念物となっています。あたりは滝の瀑音と飛散する天然のミストが立ちこめて、マイナスイオンたっぷりの冷んやりとした銀色の空気が漂う世界。
神秘的で心洗われる群馬の自然を謳った札です。

出ました、役札! 花札じゃないんだから役なんてないのですが、かるた取りしながら、誰もがねらっている札と、そうでもないマイナーな札とはやっぱりあって、「ち」は間違いなく本命のひとつでした。この札に勝てるのは「鶴舞うかたちの群馬県」くらいか!笑
初版では群馬県の人口は「160万」でしたが、人口増加に伴い、10万ずつ上がり、1993年以降は200万です。「上毛かるたの『ち』が何万人だったか」は群馬県人の世代を知るひとつの目安。ちなみにぼくの記憶は170万で、その後、途中で180万になってからはどうもこの札を取る意欲が薄れたような・・・。
そのうちに、190万、180万と減る時代が来るのかどうか。人口はともかく、子どもたちが生まれ育つのに良い、明るい郷土は守り継いでいきたいものです。

上毛かるたプレイヤーにとって、まぎれもなく一番人気のカードです。
群馬県が鶴舞う形になったのは明治9年。以来、今日まで124年間にわたり、群馬県はこの形です。しかし戦争中の一時期、唱歌の「晴れたる空に舞う鶴の姿に・・・」という歌詞が勇ましいイメージの鷹や鷲に替えられたことがあったそうです。上毛かるたをつくった人々にとっても、「つる舞う形の」と読む札をつくることへの思い入れは相当なものがあったと想像されます。
自然を大切にし、穏やかで礼儀正しい日本人の名誉を取り戻そうという札でもあったのです。

徳川時代初期、上州沼田藩では真田信之の孫・真田伊賀守が悪政を敷いて庶民を苦しめていました。なんと普通の枡の4.8倍も入る超大型枡で年貢を計量させていました。茂左衛門は農民を代表して江戸へ駆けつけ、知恵をしぼって将軍家への直訴に成功。伊賀守は領地没収され、山形へ追放となりましたが、当時のルールではどれほど正しくても身分を超えた訴えをすれば死罪であるため、茂左衛門は磔刑に処せられました。
茂左衛門を供養するために建てられた「千日堂」は今もこの地に残っています。
ぼくが大学卒業した直後、雑貨屋でもやってみたいなとラフな構想案を練った際、大きな満月をあしらったロゴマークに店名「茂左衛門」としたのはもちろんこの義人への憧れとこの絵札の記憶からなのでした。

その昔、坂東太郎(利根川)、筑紫次郎(筑紫川)、四国三郎(吉野川)は日本の三大暴れ川とされ、その筆頭が関東平野を流れる利根川でした。その水源は群馬と新潟の県境にある大水上山の雪渓です。群馬県のほぼ中央を南北に流れていますが、北から前橋を通り、伊勢崎・館林方面(東のほう)に曲がって流れているため、高崎市民であったぼくの幼いころの記憶にはじつはあまり登場しません。高崎市民にとってのふるさとの川はやはり高崎城址の横を流れ、かなたに榛名山を仰ぎ見る烏川や碓氷川。
そういうわけで、ぼくの中では意外に人気のない絵札なのでありました。「絵も地味だしなあ」などと、かるたは弱いくせに、妙にえり好みする若山少年なのでした。

声に出して読みたい札といえば、これ。
なかせんどうしのぶ あんなかすぎなみき。
音そのものと文字が切り取ったシーンとの両方が頭の中に心地よくて、とても好きな札でした。江戸時代、東海道とともに江戸と京を結ぶ大きな街道だった中仙道の安中付近には杉が植えられ、その杉は300年ほどの間に素晴らしい古木となって道の両側にそびえたっています。高度経済成長期に車の排気ガスの影響などで枯死した杉も多く、今までは樹齢300年の古木は数えるほどになってしまいましたが、それでも天然記念物として保護された一画は往時の面影を偲ばせてくれる、素敵な街道です。

「富岡製糸は日本で最初なんだよ」と小学生のころ、友達と言い合い、互いに誇らしげな気持ちになったものです。富岡がどこかわからず、製糸が何かもよくわかっていませんでしたが。今、世界遺産となった富岡製糸場を見に行くと、「近代化」の象徴としてよりも、フランス人技術者の力を借りて建設したという木骨レンガ造りの美しい建物が印象的です。日本初の官営製糸場創設は1872年(明治5年)。以来、115年間操業して、1987年まで動いていたそうです。

塩原太助は無一文から出発して大商家を興しながら、終生謙虚に生き続けた人物として明治時代の落語や読み物の出世譚で大人気を博した人物です。絵札になっているのは愛馬アオと別れ、江戸へ立つシーン。実家で継母からいじめられ、あげくに殺されそうになった太助の危機を馬特有の特殊な能力で察知し、何度も助けてくれたアオとの名場面は太助物語の前半のハイライト。太助がのちに全国各地に灯篭や石畳を敷いて社会貢献したのは人間だけでなく馬への恩返しをしたかったからなのかもしれません。

つばくろでも人気の下仁田ねぎは江戸時代から続く群馬県の名物です。粘土質の重たい土で普通のねぎが育たず、その代わり、ずんぐりとした独特の形をしたねぎが固定種としてできあがりました。江戸時代には諸大名が競って求めたことから「殿様ねぎ」の別名も。
ところが絵札を見ると描かれているのは普通のねぎ。おそらく当時は生産量も少なく、一般の店先では見かけない珍しい食材だったのだろうと思います。
ねぎとこんにゃく、どちらも今ではいつでもどこでも手に入りますが、実はどちらもすごく手間ひまのかかる食材です。手間ひまかけて、普通の家庭で普通に食べられるものを作ってきた下仁田の人々の姿を同じ上州人として誇らしく思うのであります。

若山修、心に映る故郷の情景といえば、高崎から仰ぎ見る榛名山です。中腹には幽玄なたたずまいの榛名神社があり、1200年以上の長きにわたり、農耕の民を守ってきた神様が住んでいます。戦後、榛名湖畔でキャンプを楽しむ人々が増え、ハイシーズンにはテント村のような雰囲気に。ぼく自身もここで林間学校をすごし、みんなでボートを漕いだことと、キャンプファイヤーで彦星役を演じたのをおぼえています。
戦争を経験してきた上毛かるた製作者たちの目には、この平和でのどかな風景がどれほど大切で愛しいものに見えたことでしょうか。美しい榛名富士をバックに、湖面でボートを楽しむ若者の姿を描いた札です。

江戸時代の館林藩は5代将軍綱吉の出身藩。子ぎつねを助けてもらったお礼に親ぎつねがお城にふさわしい場所を尾っぽで示したという「尾曳城」のお堀に沿って、歴代藩主がつつじを植えました。足利氏との戦いに敗れて散った新田一族の残したつづじも移植されているとか。1万本を超えるつつじの中には樹齢800年になるものもあるそうです。時代を超えて受け継がれてきたつつじの名所は「花山公園」と呼ばれ、今も4月から5月にかけて庶民の眼を楽しませてくれています。

高崎線で高崎駅が近くになると、烏川の向こうに観音山の山頂に立つ白衣観音が見えてきます。高さ41mの立像は昭和11年(1936年)に群馬県の実業家井上氏が建立。戦争への突き進む世相の中で完成し、戦中と戦後の高崎市民の苦難を見つめ続けてきました。
ちなみに観音様の体内は空洞で登ることができ、中にはさまざまな仏像が納められています。何かが特別スゴイ!というわけでもないのですが、観光地としてはすでにピークを過ぎてしまっていながらもいまだにときどき訪れたくなるのは、営利目的をまったく感じない清らかな観音様の佇まいによるのでしょうか。

館林市にある茂林寺はタヌキ伝説のお寺です。絵札は、助けてもらった恩返しに茶釜に化けて曲芸を見せるタヌキ君。愛くるしい茶釜タヌキ君はじつは一生をこの姿のまま過ごし、死後も茂林寺で大事にされて、今に伝わっています。この茶釜で湯を沸かし、集まった人たちに茶をふるまうとどんなに汲んでも湯がなくならず、また福を分かち合う力があることから「分福茶釜」と名づけられたそうです。
茂林寺にはユーモラスなタヌキの像がいくつも並び、3月はお雛様、5月は若武者姿など季節ごとに衣替えします。ちなみに8月はフラダンサーになり、12月には大掃除のかっこうになるそうです。

自由の精神にあふれ、学生の自治を重視する同志社大学を創設した新島襄は群馬県安中の生まれです。1864年、国禁を犯して渡米し、キリスト教教育者となって明治時代の日本に戻り、布教と教育に努めました。国家や宗教も超えて自由と平和を追求したその教えは「非戦の牧師」として有名な柏木義円を通じて故郷・安中でも受け継がれました。この読み札の原案者は義円から受洗した須田清基牧師と言われています。襄から義円へと連なる人々を「平和の使徒」と呼ぶことに万感の思いを込めたのでしょう。
京都の同志社、群馬の新島学園などに「良心碑」と呼ばれる石碑があり、そこには「良心の全身に充実したる丈夫(ますらお)の起こり来たらんことを」という襄の言葉が刻まれています。

ついに田山花袋の回が来てしまいました。うーん、書くことがない。絵札も地味だし、どうもこの札は若山少年にはもうひとつ人気がありませんでした。ただし、新島襄や内村鑑三に比べると、「人物札」としては見分けやすかったため、取りやすい札ではありました。そして、取ることができるたびに頭の中で「文豪っていえば夏目漱石??」という突っ込みのセリフが浮かんでしまうのでした。小説といえば、血沸き肉躍る冒険譚ばかりを読んでいた若山少年は夏目漱石もろくろく読んでいなかったにもかかわらず…。
館林市にある田山花袋記念館では最近は漫画やゲームの影響で、イケメン風キャラに変身した田山花袋青年のイメージを前面に押し出しているそうです。

ぼくが子どものころ、家の周りにはあちこちに桑畑があり、桑の実は遊びの途中のおやつでした。小学校でも繭から生糸を取る授業があり、育てた蚕が茹でられて死んでしまうと知ったときの衝撃は少年時代の大事件のひとつでした。「たとえ蛹から成虫になっても蚕は羽も口も退化していて飛べないし食べることもできず、1週間くらいで死んでしまう」と聞いて、衝撃は倍増でした。
月日は流れ、大人になってからではありますが、人に生糸を取らせるだけのために生きる蚕を「おかいこさま」と尊称で呼び、神さまの使いとして大切にしてきた昔の人の気持ちをちょっとだけ知ることのできた、良い授業だったのだなあと思い出すのであります。

みなかみ町は群馬県最北部。その一番奥には谷川岳がそびえ、8つの温泉からなる県内最大の温泉郷があります。高校生のころはスキー板をかつぎ、上越線に揺られてスキーに行ったものです。谷川岳ローブウェイで行く天神平スキー場は「天空のゲレンデ」といった趣があり、大好きでした。ロープウェイ場よりすこし先にはロッククライミングで有名な一ノ倉沢があり、ここは夏に行きたい場所。沢をずっと目でたどって見上げると、根雪をいただいた沢の上流がはるか彼方に見え、夏の盛りでも山からの爽快な空気が吹き抜けます。
ドライブ好きだった父親に連れられていった若山少年、夏の思い出です。

高崎市の吉井町の多胡碑、山名町の山上碑、金井沢碑をあわせて上毛三碑と呼んで、ただいま群馬県では世界記憶遺産への登録をめざし中です。奈良時代よりも古いころに建てられた石碑で、歴史的研究価値に加えて、書道のお手本にもなる達筆な文字なのだとか。多胡の「胡」は渡来人を指すと考えられていて、1300年以上昔のこの地域にはたくさんの大陸からの移住者がいたとされています。当時、群馬に大陸との交易の一大拠点があったのか、それとも大陸からたくさんの人たちが移住せざるをえなかったような大事件でもあったのか。
想像する楽しみの多い地元の古代史、最近ちょっと興味あります。

大正から昭和初期にかけて関東地方の女性の着物生地として有名だった伊勢崎銘仙。素朴で親しみがあり、丈夫でおしゃれなことから人気を博しました。戦後、和服用の絹織物は需要が減っていきましたが、自由な精神と伝統を大切にする心を持ち続けてほしいという願いを込めて、絵札には洋装の女性が反物を紹介する姿が描かれています。
伊勢崎市は群馬県の南部中央に位置し、つばくろ定番のごぼうを作っている静ファームさんがあるところです。

妙義山は群馬県南西部に位置し、奇勝をもって知られる山で、長年の風雨によって削られ、硬い岩だけが残り、ごつごつと険しく連なる山並みが特徴です。小さなころ、「アスレチックパーク」というのが大好きだった若山少年にとって、急な岩場を鎖をつたって登ったり、巨大な石門をくぐりぬけて進んだりという妙義山はまさに天然のアスレチックパークでした。大人になっても、下仁田あたりから見上げる妙義の景色はいくら見ても見飽きることがなく、自然が生み出した芸術作品と呼ぶにふさわしい静かな威容を誇っています。
若山少年の心に「山国魂」を植え付けてくれたのはこの一枚だったかもしれません。

遠く大分県の名勝地・耶馬渓を知らぬ、上州群馬の若山少年は「やばけい」という言葉の響きと漢字の持つ雰囲気から、耶馬渓を勝手に中国のどこかだと思いこみ、長年にわたり、「吾妻の峡谷は中国の名勝地もしのぐ美しさ」と憶えていたのであります。大分県を友人と旅行したのは3年前。そのとき、群馬にも住んでいたことのある小倉出身の友人が「この先にちょっと行くと耶馬渓やぞ」と言うのでびっくり。数十年来の間違いを知ったのでありました。
若山少年はともかくとして、若山牧水が紀行文に「どうかこの渓間の林が、いつまでもいつまでもこの寂びと深みをたたえて、永久に茂っていてくれることを心から祈るものである」と書いて以来、約100年。今も、吾妻は美しい峡谷の地として有名です。

上州一ノ宮貫前神社は富岡市にあり、その歴史は古く1500年前からあると伝えられています。見どころは、参道を降りていった低地に本殿がある「下り宮」と、「ぬきさきづくり」と呼ばれる将軍家光建立の社殿。総門をくぐったあと、参道を降りていくにつれ、周囲は静かで荘厳な雰囲気になっていきます。下にたどりつき、社殿を見上げると、意外にもポップで斬新なデザイン。あたりの深閑とした空気との対比もあって、じつに不思議な心持ちになります。
ちなみに祀られている経津主神(ふつぬしのかみ)は武神であると同時に、藤原一族に追われた物部氏の神であると言われ、日本の古代史が好きな人にはちょっとワクワクする神様でもあります。

上毛かるた大会をめざす上州群馬の少年たちをどぎまぎさせたこの一枚。裸の母子が描かれた絵札をあまりにもすばやく取るのもなんだか気恥ずかしく、しかし、意識すればするほど、この絵札の位置が目に入ってきてしまうのでありました。
四万温泉は平安時代に起源を持ち、四万の病気を治す霊泉が名前の由来。「世のちり洗う」という読み札の名文句通り、澄んだ空気と森の静けさに囲まれた清浄な空間で、数百あると言われる群馬の温泉の中でもぼくがイチオシしたい名湯です。

上毛かるたをつくるとき、GHQの検閲に通らず、読み込むことができなかった上州人に小栗上野介、国定忠治、高山彦九郎らがいます。いずれも「反逆者」と世に言い伝えられる人たち。上毛かるたの作者たちは、これらの人々にもいつか陽の光をあてたいという願いを上州名物の激しい気候にたとえて読み込み、読み札を赤く染めてその思いの強さを表現しました。そしてわざわざ札の並び順を変えて、かるたの封を切ったときに上州の子どもたちの目にこの札が飛び込んでくるようにしたのです。強硬な指令に対する精いっぱいの抵抗でした。
平和への思いにあふれる上毛かるたの中で、秘められた激しさを垣間見せる一枚です。若山少年の心にインプットされた雷神は宗達でもなく、光琳でもなく、この絵札の雷神さんです。

濁音交じりの読み札が耳に残る一枚です。今となっては、ダム建設にも、電力頼みの生活にも、もろ手をあげて賛成というわけにはいかない時代になりましたが、この絵札に描かれた下久保ダムの着工は1959年。戦後の新たな開墾地に次々と電灯のあかりを燈すべく、巨大な建造物を人の手で生み出していくことへの当時の強い情熱と大きな希望は想像にかたくありません。
現在、群馬県内には76ヶ所の水力発電所があります。これからは、小型化され、環境負荷の少ない持続可能な水力発電のあり方で先進県をなれたらいいなあと思います。

上州と越後をつなぐ上越線の清水トンネルは1922年着工。群馬と新潟からそれぞれ堀り始めて、開通は1931年。山間部にあるこのトンネルの両側出口には、高低差をカバーするためのループ状の線路があります。当時日本一の長さ、世界でも9番目に長いトンネルでした。トンネルの両側には、この大工事で亡くなった方々の殉職碑が建てられています。
高校生のころ、上越線の鈍行に揺られてスキーに行くとき、長いトンネルの途中に突如現れる「もぐら駅」の土合駅の冷たく寂しいホームが印象的でした。地上の改札を通ったあと、462段、約10分も階段を下りないとたどり着けないという不思議な空間でした。
川端が「国境(くにざかい)の長いトンネルを抜けると・・・」と小説に書いたのはこの清水トンネルです。

清廉と誠実をつらぬいた武将として、楠木正成とともに人気の高い人物です。GHQはかるたに武士を読み込むことを禁止していましたが、粘り強い交渉の末、たった一枚だけ許された、武士の人物札です。絵札に描かれているのは、鎌倉幕府に攻め入る直前、稲村ケ崎に黄金の刀を投げ入れる「太平記」の1シーン。「ら」の札に続いて、上毛かるた制作者たちの、時代を越えた願いや祈りが宿っている一枚です。

老農とは、農業技術の改良や普及に力を尽くした農業指導者のこと。船津伝次平の生涯をたどると、今つばくろが取引させていただいている農家さんたちの姿と限りなく重なって見えます。農薬や化学肥料に頼らない農法は、基本的にとても「科学的」。観察し、試してみて、そしてよく考えて、さらに研究する。船津伝次平は明治政府が東京駒場農学校(現・農大農学部)を設立した際、農民階級出身者としてはただひとり教師に採用されました。海外から取り入れられた最新理論は知らずとも、赤城山の南麓の田畑で研究を重ねた稲作や養蚕の創意工夫は優れているばかりかわかりやすかったため、全国に招かれて、伝次平の行かなかったところは沖縄以外にはないと言われています。

和算とは江戸時代に発展した日本独自の数学です。明治以降、西欧式の数学にとって代わられましたが、江戸時代には庶民まで広がる数学ブームがあり、難しい問題とその答えを神社に奉納した「算額」も日本の各地に残っています。
和算家のなかでも天才と言われたのが群馬県藤岡市に生家のある関孝和(せきたかかず)。同時代のニュートン、ライプニッツの研究に互するハイレベルな数学を完成させました。尊敬する人の名前を音読みにする古い習慣から、多くの人たちに「こうわ先生」と呼ばれていたそうです。
江戸時代の天文学者が主人公のベストセラー小説『天地明察』に、格の違う天才数学者として関孝和が出てきたときは、なんだかむしょうに誇らしい気持ちになったのでした。笑

先週の「わ」で上毛かるた全44枚が終了です。
興味のない方にも一方的に話しまくる小咄にお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。
小学校の夏休み、朝早起きして近所の神社にでかけ、ラジオ体操のあと、上毛かるたの練習をした日々を懐かしく思い出しました。また、なるたの成り立ちをあらためて調べてみて、戦後の荒廃の中で「こどもたちが希望を持てるものを」という上毛かるた製作者たちの思いを知ることができ、とても勉強になりました。その人たちのさまざまな工夫と努力の結果として、ぼくはあの夏休みの日々を楽しんでいたのだなあと思うと、なんだかとても背筋の伸びる思いなのでありました。
1947年12月に誕生し、ちょうど70才になった上毛かるたにまつわる小咄の数々、これにて終幕です。ありがとうございました。
